PAPILIONIDAE



 「ボクは、先生の玩具だったのかもしれない」

 青年は、かちりと音をたててティースプーンを皿に置いた。
 窓の外は、身も凍らんばかりの冷たい風が居丈高に吹き荒れていた。時折聞こえる窓ガラスを打つ枝の音は、私をそのたび振り返らせた。私達のいるこの広間には、暖炉が赤々と燃え、ガラス窓一枚を隔てて外とはまるで別世界のようにぬくぬくと暖めていた。

 「でも」

 赤々と燃える炎を見つめたまま青年は話を続けた。

 「本当に愛してくださっていたのかも知れません。・・・・・・今はもう、どうしたって確かめる事などできないけれど」

 青年はそう言うと、口の端だけで弱々しく笑った。



 鬱蒼とした森の一角にその屋敷は建っていた。

 「旦那、ほんとにあの屋敷に行くんですかい? あすこに客だなんて、おいらこのへんで長い事商売さしてもらってるが初めてでさあ。あすこの大旦那は、どこぞの偉い学者さんだったってぇ話しだが、噂じゃ気が触れ……おっとと、いけねぇな。喋りすぎだ。聞かなかった事にしてくだせぇよ」

 この森の馬車の入れる所までと、頼んだ御者が飲み込んだ言葉が何だったのか、屋敷を実際に目にした時、初めて理解できたような気がした。
 馬車から降りてしばらくの間、獣道かとも思える小道を延々と辿っていくと、突然視界が拓けて、手の行き届いた庭園が現われた。ああここが、と思うまでのわずかな時間ではあったが、何か夢幻の世界にでも迷い込んだかと茫然と立ち尽くしてしまった。

 行き届いたというよりむしろ神経質なほどに整然と造られた庭園と、その奥まった中央に幽としてそびえるこの屋敷は、その鬱蒼とした木々の造る影と、中天にさしかかった太陽の光とで何かで見た宗教画、いや、もっと言うならばまるで巨大な墓標のようだというのが正直な私の感想だった。



『拝啓

 長い事何の連絡もしなかった私を、君は覚えていてくれただろうか。
 この歳になって初めて、自分は生きている間本当に何一つ残せなかったのだとしみじみと感じている。
 君と過ごした何年間かの日々を、今はただ、楽しかったと思い返す事しきり。

 君に話した事があっただろうか。私がなぜ、あれほど彼らに固執しているのかを。
 私は幼い頃、蝶ほど苦手なものは他に無かった。
 蝶の鱗粉、触角、あのぎらぎらとした目玉、伸び縮みする口吻。何をとっても私ははっきりと嫌悪していたのだ。いや、嫌悪というより恐怖に近かったかもしれない。物心着く前は泣いて逃げ回っていたと聞いた事がある。一体何が私をそうさせていたのだろう、きっかけはおそらく些細な事に違いないと思っていた。

 だが人間とは不思議なもので、あれほど激しく嫌悪していたものが、ある日突然魔性の如くの魅力をもって私の心に住み着いたのだ。後にそれまでの嫌悪感は、一種の自己防衛本能だったのではないかと思えるほど私は、彼らに浅ましく跪く恥知らずになった。
 その魅力に取り憑かれたが最後、それに翻弄され身も心もずたずたにされてしまう事を私の身体は知っていたのだろう。
 私は、この生命が尽きてしまっても、魂となって彼らを追い続けるのだろう。
 どこまでも、彼らを追って追って、一体私の魂はどこに辿り着くのだろう。

 君に、無性に会いたい。

 おまえはこのまま地獄に堕ちるのではないと言ってくれる人間と会いたい。
 今はもう、己れの身体さえ思うままにならなくなってしまった。
 最後の望みだ。叶えてくれる気はないか。

 君と、会えなかった時の為に。
 共に過ごした日々は、私の人生の中で、一番輝いていた時だと言っておきたい。

ハワード・F・バーノン

                                               日付』



 私が、今ここにいるきっかけとなった手紙が届いたのは、二ヵ月ほど前、季節は夏から秋に移り変わろうとしていた頃である。



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