「この映画に隠されてる謎とは?!」
・・・って、んなコトどーでもいーじゃんか

シックス・センス The Sixth Sense
1999/米 監督:M・ナイト・シャマラン 出演:ブルース・ウィリス、ハーレイ・ジョエル・オスメント

 じつは、密かにブルース・ウィリスって最近ちょっといいカンジと思っているのだ。
 そう思い始めたのは、なぜかテレビで頻繁にかかる「永遠に美しく」の亭主役からである。「ダイ・ハード」シリーズもキライではなかったし、1作目は私のベストにも入っているが、これまで彼が出ているから見ようと思った事がなかったのはなぜだろう。
 私の中ではあくまでも「ブルース・ウィリス=ダイハードに出てた人」から長い間進展がなかったのだ。

 なのになぜ「永遠に美しく」から意識したんだろうと考えるに、私の年令かもと言う考えにたどり着いた。
 ああいう中年男の存在は、もう遠い未来の話しではない。女房はいつも口うるさく足りない話ばかりをまくしたてる。今はこんな女だが昔はこれでもけっこうかわいかったんだぜなんて思いながらも、「わかったよ、わかったから少し静かにしてくれないか?」などと言ってしまっては己の首を絞めるばかりの亭主。浮気が平然とできるほどの度胸はないが、若い女の子にいい顔されるとバカ正直に鼻の下が延びてしまうような中年男。・・・

 私たちが今見ている背中の大多数は、そういった中年男のそれである。
 当人の前では、あーやだ!オヤジくさ〜!なんて嘯いてはいるが、心の中ではちゃんと密かにエールも送っているのだ。がんばれオヤジども、花の中年男子諸君。

 

 さて、この「シックス・センス」である。
 「シックス・センス」とは、文字通り第六感、いわゆる「超感知外知覚」の事らしい。
 コール少年は「死んだ人が見える」少年である。極めて繊細で心優しい少年であるが、「まるで普通の人のようにそこにいる既に死んでいる人間」が見えるために、周囲からは敬遠され不気味がられている事に深く傷つき戸惑っている。かのブルース・ウィリスは、小児カウンセラー/マルコムとしてその治療にあたる話しである。

 テレビなどの宣伝では、まんまホラーだと思っていた。
 要するに鳴り物入りの宣伝だったから、当然期待は「どんなに恐いか」の部分へと偏ったわけだが、「ホラー」と言うジャンルではないらしいと言う。ではこのコール少年の「僕には死んだ人が見えるんだ」と言う台詞の所以は?

 はてなマークから始まったこの映画を見終わった時、私はしっかり目を赤くしたまま、最終ロールの前で固まっていた。
 うう、なんて可哀相なんだ。へそ曲がりで申し訳ないが、私がシンクロし涙さえ流したのはコール少年のお母さんだった。

 息子の悪戯はいつも度が過ぎていた。学校では不気味な事を突然口走り、何度も呼び出しをくらい、亭主とは離婚して仕事も忙しいと言うのに、家では故意に私を怖がらせるような悪戯をする。
 優しくて母親思いの良い子なのだ。多少は他の子より繊細で脆そうに見えるし、時には理解の範疇を越えるような発言があるが、子供だから度を過ぎる事もあるのだろう。私がそれを理解してやらないで誰がこの子を理解してやれるのだろう・・・彼女の日常は、それの繰り返しだった。

 霊につけられた傷を苛められていると思いめぼしい子の家に電話をかける。「お宅の息子さんに、うちの子供を苛めないで下さいとお願いしに電話をしたのです」。その傷を見咎められ幼児虐待者として審問されてなお、「あんたの事をバケモノなんて思った事ない!」・・・そう言い切る彼女は強いと思った。

 彼女が母親の墓の前で死んだ母親に聞いた事は、「(生前)私を誇らしいと思っていたか?」。その永遠に得る事のできない答えを彼女にもたらしたのは、みんなに疎まれ、不気味がられ、ともすれば自分自身もいつ見放してしまうやもしれない不安が常に付きまとって離れなかった我が子だった。

 この映画には、いくつかのテーマが意図されていて、その中の一つが「幼児虐待」である。物語の終盤、コール少年が己の力の行き先に光明を見出すきっかけになった事件は、最近リアルでも増えつつある子殺しである。育児に疲れ果てた親が殺害を企てるのではない、親の利害で子供を殺害する事件である。そして「人の死」。また「死と生の境界」。

 ここまで書いて、昨今評判を博した「永遠の仔」を思い出した。
 私にとって、子殺しや幼児虐待、また人の死とは、これ以上ないほどの重厚なテーマなのだが、彼の小説においてもこの作品においても、それはストーリーに色を添えるため・・・というか、もっと言わせてもらえば、「よりショッキングな内容にするための」一つの素材データであって、決して掘り下げられているものではない。

 この映画に出てくる大概の大人は、幼児に深い愛情を抱き、教育なり育児なりカウンセリングと言う仕事に悦びを見出しているように思う。それ以外は、要するに虐待者いわゆる「悪役」である。

 今、幼児虐待の何に着目すべきかという点で、それは既に過去の遺物である。
 現在の虐待の一番の脅威は「そこらにいる善良な市民」である大人が、なにかのきっかけで「あちら側」に転んでいる事実である。もともとの悪人だから虐待をするのではない、虐待をしたから悪人という呼び方に変わるだけなのだ。

 昨今流行のこのテーマ作品においていつも思うのだが、どうして作者及び制作者側は、安全装置として「でも僕はこんな悪い事は絶対しない善人なんだ」と前置きせずにはおられないのだろう。

 私にとっていつも恐怖なのはこの部分。「自分は絶対にない」と言う自信に満ち溢れ、その上で「ね?可哀相なお話でしょう?」と投げかける制作者と、それを「私には虐待者の気持ちは解らないわ!だってイイヒトだもん!」と被害者に一途に同情し、だくだくと涙する善良にしてノーテンキな市民たちの存在である。

 感想の中に「コール少年」の好感度に関しての書き込みを方々で見かけたが、悪いが、私はこんな子供を持ったらさぞかしアタマが痛かろうと、これもまた母親に深く同情せざるをえなかった。

 我が子に純粋で繊細で感情豊かな詩人であれと言うのは、オトナのメルヒェンである。
 先生に人間を描きなさいと言われて、血まみれで首にドライバーの刺さった人間を描いたら、その後どういう事になるかくらい、昨今日本じゃ幼稚園児だって予測ができる。また、それを予測して回避するくらいの知恵は持ちあわせておけと言うのが親のリアルな思いである。

 その部分を無視して、マルコムの以前の患者はキャパが無く自滅したが、コール少年は、これからもその優しく繊細で純粋な心で死者を癒し続けるのでしたと言う結末は、勧善懲悪の娯楽アクションや怪奇ホラーならいざ知らず、このテーマを語るにおいて、いかにもお粗末な内容であるとも書かずにはおられない。

 ともかく問題は営業の仕方である。
 気合いは解るのだが、このところ「リング」だの「ブレアウィッチ〜」だのと純粋に作品的にこれという話が無い。

 作品的には、ブレアほど宣伝トリックに寄りかかってない出来だったし、私的にはあのトリックが無くてある日なにかのきっかけで見たと言う状況であれば、より感動したに違いないとさえ思えるわけで。
 宣伝につられて劇場に行き期待ハズレでがっかりと言う構図が返って映画ファンの批判を悪戯に煽ってしまったのではないだろうか。

 最大の「秘密」は最後にその答えが出てくるが、それを事前に知ったからと言って、大局に影響があるわけではない。この映画の見所は、制作者側の意図とするところには反するだろうが、そもそもそこに重点が無いからである。

 以前、マイケル・ダグラス主演の「ゲーム」と言う作品があったが、いきなりタイトルに答えが見えちゃってるわけで、実はこうでした〜!と種明かしされた瞬間も、はー・・・やっぱそーすかという虚脱感に打ちのめされてしまった。

 大どんでん返しと言う技は、ストーリーを構築する上で、そこまでのトリック(伏線)を方々に仕掛けてこそ生きるのである。それには何の解説も要らない。
 その作品を見た者だけが、あれは実はこうだったのではないか、こういう意味が含まれていたのではないか、あのシーンで出てきたあの台詞にはそういう意味があったのか!と、スルメのように楽しんでこそなのである。
 ワキから作者がひょいっと顔を出して、やーじつはここにもここにも凝っちゃってねぇボク。キミは気がついたか!なーんちゃってー、などと解説する仕掛けほど興醒めなものはない。

 確かに子役のコール少年を含め稼ぐ俳優目白押しで、制作費用は出演料に消えたかと言うほど話自体は小さな話である。街角ハートウォーミングストーリーと言うか。どこかで採算を取らないといかんと言うのも解る。しかし本国アメリカでは、「その秘密を知りたければ・・・」などと貞子の恐怖ビデオばりの売り方はされてないと言う。

 ではなぜ日本ではこうなのかと思うに、映画館の入場料一般で1800円という設定である。有料サービスで配給される映画チャンネルやレンタルビデオの普及に伴い、カウチで良い映画に出会う確率は日々高くなってきているにもかかわらず、劇場まで出かける足や手間、交通費や当日の食事代など雑費を含めれば贅沢な娯楽と言わざるを得ない。

 要するに、前宣伝段階で過剰な表現をせざるを得ない状況にあると言う事である。結果、そうしてもなお運ぶ人々の欲求を充たせるかとまで作品の質として問われてしまうのは当然の事であろう。

 私は古いニンゲンなので映画と言う娯楽に作品以外でのサービスは求めない。やれ音響がいいとか椅子がいいとかいつでも座って見られますとかお帰りにはこちらの上等なレストランでお食事をどうぞとかとか、そういう事はさほど問題ではなかったりするわけで。

 立ち見の通路で前に立つ人の背の高さを呪いながら、どんな映画なのだろう!とわくわくし、ライトが落された瞬間からそのワールドに捕り込まれ、場内のライトが点りはっと我に返ると同時に「もう一回でいいから見せてくれ〜!」と懇願したくなるような・・・そういう作品を心から求めてやまない今日この頃である。

 人の死は重く切なく、死んだ人にも残された人にも思いの残るものである。
 それは決してロマンチックなものではないし、やり直しが利くものでもない。
 二度とやり直しが利かないからこその恐怖感もあいまって、まだ死を体験した事の無い人間生きている人間はそこにロマンを付随して美化しようとするし、できる事ならその恐怖を宗教や笑いやロマンや恐怖譚のオブラートで包んで飲み込もうとする。

 人の死を語るのには技巧も照れも衒いも要らない。そのテーマを論ずるならば、もっともっと直球ストレートでもよかったように思う。
 この作品は、本来重きを置くべきであったテーマを言及せずにあえてメジャー志向と言う暈しをかけてしまった事によって、何段階もレベルを貶めているところが大変遺憾であると、最後に付け加えて〆としようか。

 END



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