私はグルメではないので、詳しい調理法だとか正式の「トム・ヤン・クン」だかは知らないが。
一番の親友という友人の内輪での結婚披露宴だった。当時まだ「エスニック」という言葉さえ一般的でなかったそのころにタイ料理でと言い出したのは本人だった。
本人がそう言うならと即効で話はまとまり、私はいまだかつて口にしたことの無い「タイ料理」というものに胸躍らせて参加したのだ。
私が初めて口にした(それが最初で今のところ最後だが)それは、透き通ったスープに何やらわからない葉っぱが浮いており、エビと何やらが入ったスープだった。
見た目はコンソメスープのようなのに、きつい酸味の香りがあって香辛料らしきものの香りもする。「美味いから食ってみ?」と彼女は言った。
彼女はこの私にひき割り納豆初体験をさせたこともある。
そのどろどろとした茶色い得体の知れないものは確かに納豆の香りがし、口にしてみたらそれなりに食えた代物だったが、一度も自ら作ろうとは思ったことは無い。
そして今また、この目の前にある透き通った得体の知れないスープには何かそれだけでは済まないような気もしていた。
「辛いものだよ?」と亭主が言っていたような気がする。
「いいなぁ、おまえ、タイ料理食えて。おまえだけ」そんなにいいものなのか、タイ料理って。うらやましくなるくらい。
口に入れたとたん、酸味が異様にきつい。・・・・・・辛い。
「すっげ〜辛いよ。これ」「だってタイ料理だもん」葉っぱが口に当たる。噛んでみると苦いようなすっぱいような。何だこれ。
これが亭主もうらやむという「タイ料理」か。
他に焼きうどんとか春巻きとか言う名称の手当たり次第食えそうなものを頼んでは見たものの、どれもこれも知っているもののくせにその味とは程遠い何か。
そう言えば、亭主に連れてってもらった「これが正式」というなんだか台湾だか中国だかの料理もそうだった。私は「八角」をそこで初めて体験し、すっかり嫌いになったこともある。
前置きが長くなったが『エイリアン4』は私にとってはこの「トム・ヤン・クン」であった。
きっとそれが気に入った味ならば、病み付きになるお人もいるのだろうが。
とにかく初めからいやな予感はしていたのだ。
同監督(ジャン=ピエール・ジュネ)の『デリカ・テッセン』という作品はきっとこの先も見ないと思う。
ウィノナ・ライダーも、はっきり言おう。嫌いかもしれない。
『シザーハンズ』でも感じていたが、どこがいいのかまったくわからない。
この小柄でかわいげの無い、なんだかわけしり顔の彼女。
こういったタイプは苦手というより、できればあまり近くにいてほしくない。お互い干渉しあわずに別な世界でそれぞれ生きたいように生きていていいんじゃないか?といったタイプ。嫌いか好きかといった問題以前である。
できれば「彼女のことどう思う?」と聞かれたくないタイプでもある。
とにかくカメラが。なめる、なめる。あおる、あおる。
役者は確かにこの作品の意図としているところだろうが、奇矯な雰囲気を持ったものばかりである。
その一人一人が何か台詞を言うたびになめるのだ。
そんな必要性がどこにあるのだろうか?
ギャグマンガの掟に「ギャグは出し惜しみをすることだ」というものがある。
すっげ〜面白いギャグであればあるほど、何度も同じテンションで聞かされては聞かされているほうもたまらない。最後の笑いは引きつるし、観客はすぐに飽きて引いていくからだ。
それより重要なのは決めのシーンである。
ギャグマンガならギャグマンガなりの決めのきつい一発でしてもらったほうが、本を閉じた後でも引き続いて笑えるほどのパワーがあるのだ。
ここでの「なめる」は故意にされているのなら、その意図を知りたい。
このカメラは私に何が伝えたかったのだろう?俳優の奇矯さか?台詞の重要さか?重さか?・・・そのどちらも、あったとは思えないが。
リプリーとエイリアンとの絡みにしても、このウィノナ・ライダー演じるところのコールがアンドロイドであったことも、まったく本編には必要はなかったように思える。
リプリーことシガニー・ウイーバーはヌけない女優である。
第1作目の『エイリアン』のラストシーンを除いては。
『ゴースト・バスターズ』のエロティックなシーンにしても、彼女においでおいでをされてふらふらとなる男性の気が知れない。
私は、彼女のそういうシーンを見ては「女優業というのも大変だよな、リプリーがんばれ!」と心中密かに声援を送っていたものである。
この監督は、シガニー・ウイーバーに何がしてほしかったのだろう?少なくともそれがなされたとしても、おそらく私が悦ぶようなことだとは思えないが。
コールがアンドロイドであったということの有利な点は、設定上のつじつま合わせでしかなかった。
この人間臭い、弱っちぃ、小生意気な出来損ないのアンドロイドには悲哀も無い。だからといって緻密な頭脳も無い。マザーコンピューターへの接続の末端でしかなかったじゃないか。
彼女がどこからわいて出たのかもはっきりと描かれてはいない。
彼女は宇宙海賊の一員であって、偶然乗り合わせた船ではエイリアンが増殖していたので、それをなにやら阻止しようとしていたらしいが、そこで平和だなんだという伏線が読めない。
彼女はアンドロイドとして何を憎んでいて、何を守ろうとしていたのだろうか? そういったことが一切伝わってこない。
いつもどの映画でも必ずといっていいほど私がはまる台詞、「私、いやなのよ。マザーと繋がるのは。体中が解けるような気がして」は、初めてこの映画で無感動だった。
「で?」・・・それがどうした、コール。あんたはそれくらいしか役だちゃしないんだから、文句言わずにとっととしなさいよ。
しかも。あんたの口から聞くとは思わなかった。
大きなお世話だ。あんたにゃ関係ないことだ。
あんたなんか知らないくせに。
リプリーが今まで死にそうになりながら(最後には死んだけど)ずっとエイリアンと戦ってきたことなんか。
200年もの間何人の仲間を見送ったと思ってんのよ。
彼女はそのたび泣いたけど、そのたびがんばってきたんじゃない。今回だってこないだだって、彼女は好きでそこにいるわけじゃない。彼女に言うのはお門違いよ。しかもあんたからなんて。
あんまり何度も言うもんだから、もう少しでテレビ、壊すとこだった。
1作目のアッシュが恋しい。
「アーッシュ!!!」白い粘液の中で大声で名前を呼ばれて目覚めさせられて、びくっと目を覚ますアッシュ。
彼は彼に与えられた任務を忠実に果たそうとし、エイリアンを賞賛しながら崩壊していった。アンドロイドたるものそれでこそだ!
正直な話、これは『エイリアン』という映画のカリカチュアでしかないと思えた。
だったら初めにその事ははっきりと断り書きをしてほしかった。
私はもったいつけた皮肉屋は嫌いである。しかもその皮肉が、家に帰ってからじわっと思い出されて3日も後引くようなものは最低である。
大体において、その内容なり筋立てが前説無しで理解できないようなストーリー立てというところが納得できない。
本来連作ではあっても連載のシリーズではないのだから、『エイリアン』という映画を知らない見た事が無いという者にもしっかりとストーリーが把握できてしかるべきなのだ。
これは決して単館上映のカルト映画ではなく、ロードショー館での鳴り物入りでの上映作品なのだから。
それが伝わらないというところは脚本の怠慢である。
これだけ巨大な資金がつぎ込まれ、これだけ豪華俳優陣が使われ、CGもセットもすばらしかった。
舞台の出来としてはいまだかつて無かったくらい、ギーガーらしいそれになっているとも思える。
それだけのアイテムが用意されているにもかかわらず、しかし、監督の意図とするところが散漫で、その一つも生かされてはいない。
どうせ、カルトな監督ならば、大衆に媚びること無く、思う存分カルトにしてしまってもよかったのではないか?
中途半端に大衆に媚びようとする部分がこの映画を殺している。
キャメロンはちゃんと彼のしたいようにしたじゃないか? 彼の映画はほんとにどう転んでもあれなのだ。映画の出来がどうであれ、彼は彼の撮りたいエイリアンを撮ったじゃないか。
名を売る事でなく、まず、ちゃんと正面からエイリアンを愛してほしかった。
もう、10年ほど空いていいから、私はいつまでも待っているから。
エイリアンマニアな監督に『エクソシスト3』のような、同じマニアが随喜の涙を流すような作品を!と望まれるところである。
ブラッド・ダーリフがよかった。
やはりリプリーとエイリアンの絡みより、このブラッド・ダーリフ演じるところのゲディマンとの絡みのほうがぞくぞくした。
マッドサイエンティストの一言では言い表せない。
彼には耽美がある。彼はこの最強にして最悪の化け物を確実に愛していた。
ガラスの中にいたのは下っ端だ、ゲディマン。あんたは知らないだろうけど。
あんたには1で食われてほしかった。1の世界に迷い込んでほしかった。
あそこで本来一番美しいエイリアンを見せてやりたい。
繭の中から、来いよ。来るんだと囁きかける気持ちは私にはとてもよく解る。
相手が、本来一番美しい姿であるウォーリアではなかったところが惜しいところである。
頭から。ざくっと。
私はあんたの身体の一部になって、涸れた惑星に不時着した宇宙船の薄暗い船内で捕食しまくる姿をうっとりと眺めていたいぞ。エイリアン。
END
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