ドラキュラとか吸血鬼ではなく『ヴァンパイア』
バンパイア』ではなく『ヴァンパイア』。
襟を正して下唇を軽く噛んで『ヴァ』である。

ハンガー THE HUNGER
1983年・アメリカ 監督:トニー・スコット、脚本:イバン・デイビス
出演:カトリーヌ・ドヌーブ、デビット・ボウイ、スーザン・サランドン

 好きな映画は?と聞かれて、とっさに出る何本かの中にこの『ハンガー』が入る。
 私自身、ボウイにさほど思い入れはないものの、かつて耽美やJUNEと言えば彼の名前が1ページに1つは活字になっていたほどのカリスマである。
 しかし、当時ひっきりなしに話題となっていた「地球に落ちてきた男」や他のホモセクシュアル映画を見るより、私は初めて見た瞬間から、この映画の虜になった。

 物語はニューヨークのディスコから始まる。

 黒の皮ジャンにサングラス。当時流行のパンクロックががんがん流れる中、エモノを物色して行く。ドヌーブが選別し、ボウイが捕獲する。
 そうそうこの感じ、もう記憶は相当おぼろげだが『2001年宇宙の旅』の冒頭の果てしないランニングシーンの高潔さに似ているかもしれない。『時計仕掛けのオレンジ』のディスコシーンにも。

 体臭が無い。汚物の臭いがしない。この映画の直後、汚物の臭いまでいかにリアルに描けているかと言う奈落を一気に転落し始めたホラーたちの中で、この高潔さは貴重だったに違いない。
 ボウイやドヌーブもさる事ながら、エモノになるタフガイの体毛の1本1本にまで神経が行き届いている。彼には体臭が無くおそらくその部屋には本皮の獣臭とシガーの臭いが微かに混じるシトラス系のデオドラント。女の方の匂いは安物のリップスティック。彼等はあくまで獲物であって物語の重要な役割を担ってはいない。そこですっぱりと切り捨てられるリアル。それがえらく心地いい。

 行為に及ぼうとする直前、自慢のイチモツを挿入しようと彼女の緩やかな優しい弧を描く下半身を蔽うパンツに手をかけた瞬間、ドヌーブはそのタフガイに聞いたかもしれない。
 「ところであなた、手はちゃんと洗っているんでしょうね?」
 決まり悪そうにくすりと笑いながら、タフガイは言っただろう。
 「なに言ってるんだベイビー。今になって面倒は無しだぜ?」
 彼女はにこりともせず首のアンクの形のペンダントに仕込まれた小さなナイフで、タフガイの頚動脈を切断する。
 「お願いだからうるさくしないで。騒々しいのはキライなのよ」。

 リアルのようでいてリアルでない、希望的リアルとでも表現しようか。観客は、この時点で一気にこの『ハンガー』ワールドへと埋没する。

 それまでの吸血鬼のイメージといえば、「私は吸血鬼ドラキュラだー!」とクリストファー・リーが名乗り、「退治してくれよう!」とヘルシング教授が、杭を持って立ちふさがるというお決まりのパターンだった。
 C・リーは、ニンニクだ太陽光線だと弱点が多い上に怪物というほど強くも無く、ヘルシング教授はいつも物静かな初老の紳士で、怪物退治というには弱すぎた。たとえば女吸血鬼から物語が始まったり、そのイトコのまたイトコのなんたらがなったとかなんとか、どんなに手を変え品を変えしたところで、そのパターンは抜けていなかった。

 その後、81年の「ハウリング」、82年の「狼男アメリカン」と来て、この変身モノ3大怪奇モンスターの流れは変わった。「狼男アメリカン」に至っては顔や体毛だけではなく骨格そのものがヒトから獣へとぎしぎし変わっていくリアルなSFXに観客は息を飲んだ。
 そして83年、この「ハンガー」で、吸血鬼はヴァンパイアと言うクリーチャーへと進化を遂げ、それまでの定番だった長い付け牙と教会や十字架、ニンニクなどのアイテムを捨てたのだ。
 この作品の中でももちろん吸血するが、すするのではない舐めるのだ。それは単に血が好物と言ったふざけた感覚ではない、数々のモンスターを生み出した原作の根源、エルジェベト・バートリを髣髴とさせる血の狂気、カニバリズムに似た狂気である。

 この作品は、吸血そのものを異端だ撲滅だと騒ぎ立てるシナリオにはなっていない。吸血鬼は人類に害を成す存在としては描かれているが、それを「退治」する正義の味方は出てこない。吸血と言う十字架を背負った異端者の自滅していく悲劇を描いた作品である。もう、記憶がたいそう曖昧で申し訳ないのだが、かの「NIGHT OF THE LIVING DEAD」の監督ジョージ・A・ロメロの「マーティン」(77年/米)も同じテーマだった。

 彼らはいつも卑屈に闇に潜み、ころあいを見計らっては吸血し、結果村人に寄ってたかってハブにされ最終的には集団暴行を受け惨殺されてしまうのに、「正義はいつも勝利する」と村人が勝どきを上げるシナリオは、どうしても好きになれなかった。
 私の中で吸血鬼はずっと弱者だったのだ。

 この作品の中で、「吸血」は「永遠の若さ」と深く関わっていて、感染症の一種とされている。それを発見研究しているのがスーザン演じるところの女医である。彼女はそれを世間に発表する事で地位と名声を手にせんと躍起になっている。

 スーザンの目にはパワーがある。
 『イーストウィックの魔女たち』(87年/米)の中で、彼女が恐れていたのは"痛み"であったように記憶している。彼女の大きすぎる目が、少し疲れたようになり、彼女の瞳が空を泳ぐたび、私はどきどきしてしまう。儚いと言うのではない、神経質というのでもない。彼女自身から発散されるエネルギーと言うか。リアル感の無いボウイとドヌーブを双璧に前半は展開するが、後半はこのスーザンのもつ特有のエネルギーが二人を食っていく。

 ドヌーブは、それまで数百年にわたり生き長らえてきた原種吸血鬼である。
 この物語の中では眷族の存在は無い。彼女は永遠の若さを得ていると同時に、永遠に孤独でもあった。しかしながら、これはドヌーブでなければならなかったのが理解できる事柄であるが、彼女はそれだけの妖艶さを保ちつつ、数百年生きた吸血鬼と言う年齢的な深さの圧巻を見事に演じ切っているのである。

 ボウイは、彼女からの二次感染者すなわち元人間である。
 吸血鬼になった経緯にはもちろん彼女を愛した事も十二分にあったが、「永遠の若さを得たい」と言う欲望があった。彼女にとってはほんのこわっぱ、若さの特権とも言える傲慢さと欲望に流されやすい幼さ、彼女に選別されたと言うプライドとを併せ持った美しい若者と言う特異なキャラクターはやはりボウイでこそと言ったところか。

 二人は高級住宅街の邸宅にひっそりと棲み、通常より年を取らないと言う事を秘密にしておくため、ドヌーブは滅多に人前に出ないが、ボウイはそれでも近所の少女にバイオリンを教えるなどして外界との接触をやめようとしない。

 が、当然のように永遠の若さと言うものがそうやすやすと手にはいるわけではない。二次感染者の得た「永遠の若さ」には致命的な欠陥があったのだ。運がよければ、通常より長い間若く美しくいられるが、運が悪ければ、吸血鬼となってまもなく通常よりはるかに急激な老化が始まる。
 二人はその欠陥を知ってはいたが、ボウイは自分は特別と思い込んでいたし、ドヌーブもそうである事を強く願っていたのだ。

 永遠の若さ、永遠の美しさ。
 大きな窓からは心地よい風が、薄いカーテンをゆったりとなびかせ入ってくる邸宅。そこはいつも心地よい音楽が流れ、芸術品のような調度で飾られ、ゆっくりと静かに時が流れている。

 このままずっと。おまえと一緒にいられたら。
 永遠なんて、怖くない。

 が、やがて二人に破滅の時が訪れる。ボウイに急激な老化が始まったのだ。
 テレビでそれを研究している女医がいると知り、ボウイはスーザンの病院を訪れる。が、野望に燃え躍起になっている彼女は、ボウイを非情に追い返す。

 シーンには何時間かの経過があるが、ほんの数十分の事なのだ。
 やきもきしながら女医が面談してくれる事を必死の思いで待つ彼が、急速に衰えていくシーンは、見ているだけで痛い。青年の座っていたはずの席を何度かカメラが追う毎に、肉が落ち、皮膚が緩み、骨が曲がっていく。美しいブロンドだったはずの髪は、見る見る潤いを失い白髪になって抜け落ちていく。

 ちなみに、ボウイが急速に老化し、美女ドヌーブがミイラ化し散って行く特殊メイクは、かの「エクソシスト」のディック・スミス。クリーチャーを創作するのではなく、いかにリアルを写し込むかに長けた巨匠である。

 「あの患者はもう帰った?」とスーザンが言い、同僚たちにきびきびと指図しながら病院の廊下を行き過ぎる瞬間、すれ違った老人が、たった数時間前ちらと扉の隙間から見かけたあの青年だと、彼女は当然気づかない。

 「待ってたが、もういい」と、すれ違う瞬間老人が吐き捨てる。
 彼にとって重要なのはあくまでも美しさであった。それがこうして数時間のうちにその手からこぼれ落ちる砂の如く失ってしまった今、彼にとってスーザンは何の価値も無い。
 ボウイは痛む体を引きづりながら邸宅に戻るが、どうしていいかわからない。そこへバイオリンを教えている少女が、音楽教師の若く美しいボウイを訪ねてやってくる。

 「おじさんはだれ?」
 少女は残酷にも打ちひしがれた彼に無邪気に問うのだ。
 「遠縁の者だ。私に君のバイオリンを聞かせてくれないか?」
 その老人を奇妙に思いながらも、少女は一心にバイオリンを奏で始める。

 美しい音楽と、美しい部屋、心地よい風と贅沢な調度に囲まれ、少女は、何の力も借りずに自然そのもので、若く、そして瑞々しい。
 つい数時間前まで、自分が誇らかに謳いあげていた若さが、目の前にある。

 嫉妬だったのかもしれない。絶望の果ての自暴自棄だったのかもしれない。
 ボウイは隠者吸血鬼としての禁を侵し、少女を襲うのだ。

 圧巻は、その数時間後、既に生きる屍となったボウイをドヌーヴが抱えて邸宅の屋根裏部屋にある夥しい数の棺の部屋に運び込むシーンである。
 天窓から差し込む眩しい陽光の中、薄いカーテンが舞い上がり、どこから入り込んだか純白の鳩が、闖入者に驚いて舞い上がる。

 捨てないでくれ、それでも僕を愛してくれ、愛してくれないのならせめて殺してくれとすがる老人ボウイに、ドヌーブはすすり泣きながら言うのだ。

 「私たちは死ねないのよ。
 土の中で、腐った森で、永遠の暗闇の中で、
 見たり聞いたり感じたりし続けるのよ」

 傍の棺に語りかけながら、ドヌーブは静かに彼をそこに置き去りにする。
 なんと言う残酷。

 これから永遠の時を、この屋根裏の眩しい墓場で、生きる屍のまま、彼女が次の「若く美しい共に生きる者」と愛し合う姿を感じ続ける。
 おそらくそれは死よりも残酷で、永遠に己の所業を後悔し続ける地獄であろう。

 この先、彼の死を嘆きつつもスーザンを新しい連れ合いにせんと企てるわけだが、天下のドヌーブと、あのスーザン・サランドンとのレズシーンの圧巻は、100万語尽くしても語りきれない。私ごときのこっぱは、結構なお手前でござんしたとただただ拝みひれ伏すばかりである。

 当時の映画のコピーは、「永遠の愛が欲しければ、人間以外のものになりなさい」。
 諸星大二郎の「暗黒神話」の中で、永遠の生命を得るために醜い餓鬼となるエピソードがあるし、映画「永遠に美しく」では、ペンキで塗り固めた乾いたマネキンのような身体で生き長らえる事になる。「タイムマシン」で彼方未来まで行った主人公は、赤く爛れた大地に巨大に異様に変形した蟹らしき生き物だけがいる光景を見る事になる。

 ヒトは、儚いから美しいのかもしれない。
 愛は、終わりがあるから充足するのかもしれない。

 それでも。
 永遠と求めるヒトの愚。

 捨てないで、僕を殺してとすがる老人ボウイ、待って、私を置いてかないでと絶叫するドヌーブ。永遠に連れ合ってなお余りある愛というのはどんな形をしているのだろう。

 つい先日そういえば亭主とこんな話になった。
 「ねぇ、もしも生まれ変わるならまた、私と一緒になりたい?(笑)」
 しばし考えて亭主。
 「だって、おまえとは兄弟みたいだからなぁ」

 …基本的に「美しい姿態」と言う上手い汁を吸った事の無い者は幸である。

 END



「満月夜には恐怖映画を」扉に戻る
タイトル一覧に戻る
ジャンル別短編感想文投稿板/ちょっとしあわせさがしねま

夜会大扉に戻る