BBSの話題としてはすでに新しさも無く、見てきたよ報告はあるもののどうにもみんなピントが外れているような気もするし、語らないものは一切口をつぐんでいる。なぜ、熱くない。理由はおそらく「観る人が見れば解る映画」に位置するのだと思った。
最悪、「未来世紀ブラジル」かもしくは「ブレード・ランナー」・・・CGCGとうたわれていたので「2010年」の流れかソ連名作映画の流れか。アクションも込みで「ダークマン」とか、そういや既成概念をどうとか言ってもいたから昨今ブレイクの「スターウォーズ」・・・うわぁ、助けて。誰か止めて。そんな事にでもなったら、私はその場で間違いなく席を立つ事になる。
思い出せる限りのそういった類のSF映画が脳裏を過ぎる。どれもこれも名作だったろうが、それを焼き増しして見せられる事はもう既に拷問に他ならない。
この手が売り物の映画はゴマンと見てきたのだ。しかもその中で本当に好きになれたのは片手でもまだ余るかもしれない。
それでもまだ、新作に期待してしまうおのれの業を呪いつつ並んで待つ事40分。
彼女の予言どおり、列はホールを横切らんばかりの長さになり、けっこう年配者が多い事にも驚きながら観た『マトリックス』。
座席に座り、劇場のライトが暗くなった瞬間、私は確かに脅えていたのだ。
「この映画も駄目だったら、もう、生きていけない」
私はもともと偏った映画ジャンルが好みな上に、JUNE系で騒がれている映画は基本的にまず避けてしまうような帰来があって、申し訳ないがキアヌ・リーブスを意識したのはこの作品が初めてだった。
なにやらという映画で生意気だったから?このところ不遇だったのよとは相方の弁。ふぅん、脚本をより好みするお人なんだ。きっと私のカバーするところではないジャンルで(たとえばラヴストーリーとか?)有名なお人に違いない。
白くて細長くてなにやらキュートな眼をしたこのお人が、あのサングラスとロングコートを付けると弾丸をよけれちゃうわけね。
設定は、裏でハッカー家業を営むさして取るとこも無いプログラマー。
高層ビルの窓沿いに窓拭きの足場まで行けといわれて足がすくみ、そのままエージェント・スミスご一行さまに拉致されてしまった彼が、中指を立てて「この指を咥えさせてやるから、今すぐ電話をかけさせろ」と言うシーンは、かわいくさえあったのに。キアヌ・リーブスという俳優が、これほどまでに強烈な印象で焼き付くとは、考えてもいなかった。
キャリー=アン・モス。彼女ははなからリプリー好きの私のツボを強烈に直撃してくれた。彼女の空中に静止するシーンは、何度もテレビの宣伝で見たし、そのたった数秒のカットだけで、劇場へ足を運ばせるのには十分な理由になった。
アクションする瞬間のちょっと唇を突き出す仕種がたまらない。総レザーのコスチュームもたまらない。短い髪も、おそらくその下の頭蓋の美しい形にもうっとりだった。
前宣伝ですでにここまではまっていて、なにが駄目でも彼女が出ているなら、私は最後までとにかくとりあえず座り続けていられるかもしれないと、私にとっても光明というか命綱というか、そういった存在だった。
がしかし、その期待度120%の空中静止シーンにはいきなり冒頭でかまされてしまい、じゃ、また。と彼女はクールに私に言い放つ。なんて酷い仕打ち。残りの1時間半、私は再び駄目かもと脅えながら、ここに座っているしかないじゃないか。
フェチなのだ。
とにもかくにも、何というかフェチ魂を多いに刺激してくれているのだ。
某エヴァンゲリオンではわかってんのかこいつと思わず呟いた聖書からの引用、ネブカドネザルというのは某キリスト教系宗教の授業中にインプットしたワードだった。トリニティーもそうだった。
謎の人物モーフィアスは、不思議の国のアリスにおける兎の役目なのだと解説されていたが、私にはバプテストのヨハネのように見えた。予言者として名をはせながら、救世主に洗礼を施した後で投獄されつまらん理由でヘロデに首を落とされてしまう彼である。
それがそうであったか無かったかはどうでもいい事で、ただ隠喩というものはこういう風に使われてこそなのだ。角度を変えて見る事によってさまざまな文様を映し出す万華鏡のようであり、そのじつ答えは監督のみぞ知る。長い事こういった感覚も味わってなかったように思う。
その隠喩の一つ一つが、くくっとフェチ魂を心地よく刺激する。
苦痛というものがある。
観ているものが思わずシンクロしてしまう苦痛。
私がヤクザ系マフィア系の映画が苦手な所以である。彼等の描くところの苦痛には決して快感が伴わない。殴られたり蹴られたりすれば痛いのは当然で、涎さえ流しながら命乞いをする苦痛なんて、なにが楽しくて見に行くのか解らない。
SM趣味の無い私には、それがいつしか快感に変化しというのは、豊かな創造力のなせる技としか思えない。
紙一重に快感が潜む苦痛。それでいてリアル、それでいて甘美でなければならない。
人工栽培された人間たちには全て、うなじの部分、頚椎の部分というのか、そこにプラグの差込口が付いている。そうそうこの感じ。「砂の惑星」の外付けの処刑用心臓弁に似ている。「甲殻機動隊」にも似たシチュエーションがあった。あれは新しいソフトが刺さると少しばかりの苦痛がある。確か『エイリアン4』ではあの女が嫌がってたじゃないか。
そしてアクション。
正直以前BBSでどなたかの発言にもあったが、日本で、特撮ヒーローものの世界を知る者には、はいアクションですと言われて見せられても、相当なレベルでない限り、ううむと唸るには至らない。
昨今はそのアクションにCG効果も加わり、すでに子供でさえ振り向きもしないしありがたみも無い。
この「マトリックス」は実写じゃない。いや、もちろん俳優陣は相当な修行を積み、吹き替え無しで撮ったと聞いているし、世界的に有名なアクション監督さえも参加しているというし、実写ではないというのは間違った表現なのかもしれない。
しかし、この監督が見せたかったのは、昨今進化の勢いが更に増すばかりと言われている格闘ゲーム上でのアクションだったのではないだろうか。
リアルのようでいてリアルじゃない。たとえば足が高く上がって相手に綺麗に蹴りが決まるシーンは、手心が加わっているような気がするのだ。蹴りがではない、等身がである。撮る角度によってそうなのか、キアヌやキャリー=アンだからこそなのか、そのへんはもちろん端で見ているパンピーなので解らないが。
3D美少女にそばかすがあるかないかでリアル感が違うように、その素人目には解らないわずかな歪みと言うか、調整と言うか、そういったなにか魔法が施されているような。そこに巨費が投じられたと言うのが肯ける納得できる。
私たちが求めていたのは、何も砂の一粒一粒が人工に作られていたり、登場人物の一人一人の衣装の絢爛豪華さではない。有名俳優でもなければ有名監督でもない。このリアル。このカッコよさ、この心地よさなのだ。
今日常の目の前にあるこのワールドが、どうして今まで映画にならなかったかと言う事なのだ。
たとえて言うならば・・・とここまで語っていて、友人の電話に寸断されて、その勢いで話したら、彼女にたいそう怒られてしまったのだが(笑)
たとえばエッチなサイトへ行って、バケモノのようなイチモツを見せられて、僕はこんなですと言われれば、そりゃああんたCGだろうとやっぱり思う。そこにゾウだか馬でもいい、移植してある画像は、どきどきもはらはらもしやしないのだ。今までのCG合成が売りの作品はすべからくそうだったのだ。
が、ある日亭主のそれがたった5ミリいつもより膨張の度合いが増していたなら、おやと思うだけで通り過ぎてしまうわけで。けっこうなかなかあんたもやるもんね、いったいどこで修行してきたんだかとか思いつつ。そうなのだ。そういったリアリティー。
私は体育会系ではないので、野球中継とか高校野球でさえ、おもしろ特集でない限り真面目に観た事なんざないのだが、ある日、スポーツニュースをなにげに見ていると、ピッチャーマウンドに星飛馬がいたりして。でよくよく見ると、バッターボックスに花形いたりして。今夜も消える魔球ですかねぇとか、アナウンサー語ってたりして。もうそろそろ新しい魔球考えないと頭打ちでしょうねぇとか女史アナ答えてたりして。
うわ、こりゃすげー!みたいに思う間もなく、亭主に「おまえ最近野球とか見んの?」とか聞かれて「いやそういうわけじゃないけど今、見た?」とか言ってるうちにCMになって、子供が起きてきてまったくしょうがないわねぇなんていっしょに寝て忘れちゃってて、次の日「あれぇ?」とか思いつつも、いや、なんか悪い夢よね」なんて納得するような。そういったリアル。
一本蹴りが決まる毎にどこからとも無く「YOU ARE WIN!」と声が聞こえてくるような爽快感のあるアクション。技術が高ければ高いほど、次々と面クリしていく時のスピード感。その中に喩されているメッセージ性の含まれたキーワード。そして方々に散りばめられた究極の選択の中で進められて行くRPGロールのすれすれ感。エンディングに到達した時の征服感。観客を次々と裏切り続ける脚本の妙。
最後に。
泣きそうになったシーンがある。
どういった設定のシーンかはここでは言えないが、車の中でネオがトリニティーに言うのだ。
「俺、この店知ってるよ」
トリニティーがふふっと小さく笑う。
「けっこう美味いんだぜ?」
・・・その瞬間の彼女の申し訳無さそうな、ものがなしそうな顔が忘れられない。 ネオも、トリニティーも、その車の中にいる全ての人が解っているのだ。
「その店は存在していない」
日本のマンガに傾倒したと聞いているが、ここまで心の機微を織り込んだシーンは久々に見せてもらった。
中で既成概念を取り払うのだと言う台詞があるが、既成概念を取り払わなければいけないのはネオだけじゃない、見ている観客自身がそうしなければならない時代がやっとここに訪れたと言えよう。
映画館を出る時の浮遊感、バーチャルとリアルの交錯する瞬間のトリップ感を、ぜひともみなさんにも堪能して頂きたい。
監督の小さな執着も含めて、ぜひ、劇場で見て欲しい作品である。
END
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