主婦Kの証言:
ホームセンターで売ってるような鋸じゃ脂ですぐにナマクラになっちゃうからバラせないよ。

ドラマ『OUT〜妻たちの犯罪〜』 小説『OUT』
1999/日本 フジテレビ 原作:桐野夏生(講談社刊) 脚本:前川洋一 演出:星田良子 主題歌:「HEAVEN」福山雅治

 コンビニ弁当の工場へ深夜パートに通う主婦たちが、死体をバラバラにして生ゴミに出してしまうドラマらしいという事で、予告宣伝が始まった頃からどきどきしていた。
 彼女たちが立っている場所は、今こうして私が生きている場所ととても似ている。

 男女雇用均等法が本格導入された年に見たニュースの中で、喜んでいたのは女性議員だった。「女性の職場はこれでずいぶん広がったし、これからは女性と言えど思う存分残業も出来て昇進も可能なのです」と言う台詞は、宙に浮いて空々しかった。女性であるから定時退社としている会社で優遇されてきたのは、ほんの一部に過ぎない。まずはそこまで行き着かない女性の絶対数の方が多いのが現実である。
 そういった優遇がはなから無い零細勤めの女子社員や、学歴も専門技術も無い一般主婦は今までと何が変るわけじゃない。法律だけを盾に職場でぶいぶい言わせられるとはとてもじゃないが思えなかった。

 それに比べて反対していたのは以外にも男性議員。
 「パートの女性たちは今よりなお一層低賃金で長時間、過酷な重労働に使われる事になるでしょう」・・・そうなのだ。今までは女性と言う事でわずかでも目こぼしされてきた部分が無くなると言う事でもある。優遇措置が無くなった、境目が無くなったという事で一念発起し、男性社員でも難関と言われる社会上層まで成り上がれるだけのパワーと実行力を秘めた逸材が、そんじょそこらにごろごろしているとは到底考えられる事ではない。

 亭主は職場に逃げ込んだまま帰らない。子供は塾と遊びにばかり夢中で、双方、飯の支度と身の回りの世話は母親がやってあたりまえと高を括っている。金銭面ではサラリーマンである夫にこれ以上無理を言っても無駄な事はとっくに解っている。愚痴をこぼしても何も始まらない。ましてや家族の誰かを責めたところで何も変るわけじゃない。
 生活は困窮していると言えば言えるのだろう。しかし飯が食えないほどではない。服が買えないほどではない。不幸と言って騒ぎ立てるほどの不幸ではないが幸福でもない。わずかに不幸と思しき災難は、どこかでいつか(誰かが)おいおい解決するに違いない。ただそこにあるのは漠然とした寂寥感のみである。

 ぐるぐると考えて眠れないうちに、出勤時間が迫ってくる。
 とりあえず工場に行かないと。ここにこうして立ち止まってる時間は無い。

 雅子が慟哭する。
 

「私は一生懸命やってきたのに、どこでこんなに狂ってしまったんだろう。」

 その台詞はそのまま直に私の中に染みて行った。

香取雅子
 主人公。40を越えたばかりの主婦。
 ドラマでは田中美佐子。小説では美人ではあるが痩せた硬質な感じのする女。ローンが残ってはいるものの建て売りの一戸建て住まい。物言いはストレートできつくパート仲間からは一目おかれながらも敬遠されている。凡庸で小心で事なかれ主義のサラリーマンである亭主と高校を中退しアルバイトをしている自閉気味の息子の3人家族。ドラマの中で亭主は失業しているが小説では特に触れていない。長年信金勤めをしていたという経歴から金融の裏事情にも詳しい。知的で機転も利くが世間的に全く認められずリストラで失職し結婚。一時はそれに幸福感を味わいもするが今では夫婦間が完全に冷え切り言葉さえも滅多に交わさない。

城之内邦子
 雅子のパート仲間。30代前半。
 ドラマでは高田聖子。派手な化粧で服装や持ち物に見栄を張りたがる欲望と低俗の権化。狡猾に立ち回ろうとはするもののアタマが悪く、男と見れば媚を売り、金となれば目の色が変る。愛読書は廃品から拾ってきた女性週刊誌。高田は痩せた野良猫のような感があるが小説では太っている。亭主とはナンパされて一緒になるがあくまでも内縁。その亭主も作中借金を残したまま家出。金と生活には無責任無頓着。反省、学習という言葉は彼女の辞書には無い。

吾妻ヨシエ
 雅子のパート仲間。中年主婦。40代後半。
 ドラマでは渡辺えり子。工場では熟練工として「師匠」とあだ名され、一番作業効率が良く古株であるという事だけが彼女の自信となっている。家出した長女と共に暮らす高校生の次女の母親。寡婦。深夜の工場勤務に加えて寝たきりで口だけ達者な姑の下の世話もしている。木造の古い小さな一軒家はいつも姑の糞尿の匂いがする。性格は真面目で実直、学問はない。激昂する激しさはあるがそれを表に出さない事を美徳としている。

山本弥生
 雅子のパート仲間。20代後半で美人。
 ドラマでは原沙知絵。ドラマでも小説でも仲間内から何度も男に尽くすタイプと証言されるが見終えた後でもそうは思えない。特有の狡猾さと言うかちゃっかりした面を持つからかも。亭主は標準でも中の下くらいのサラリーマンだが遊び好き、見栄っ張りで暴力的。冒頭でこの女房によって絞殺される。保育園の息子が一人。夢見がちで感情的、現実逃避の傾向が強い。パート仲間の中では特に雅子に可愛がられている。

佐竹光義
 カジノとクラブ経営者。年令不詳。
 ドラマでは柄本明。弥生に殺された亭主が通い詰めていたクラブとカジノの経営者だった事から、雅子たちグループと接触する事になる、刑期を終えた殺人犯。小説では美しく繊細な指先を持つが身体はごつい。独特の美学を持ち雅子に拘ってゆく。クラブの女の子には優しいおにいちゃんではあるが、その隠し切れない暗黒にみな深入りは避けている。

十文字彬
 街金経営者、金貸し。30代。
 ドラマでは哀川翔。族上がりでヤクザの取りたて屋を経て街金を始めるが生活は地味。頭の回転はいいが押しは弱い。小説では高校生好きのロリコン。雅子とは彼女が信金時代に渡り合って以来一目置いていた。彼女が一主婦に成り下がっている事を惜しんでいる。

宮森カズオ
 弁当工場に勤めるブラジル生まれの日系二世。20代。
 ドラマでは伊藤英明。日本で一旗上げる事を夢見て来日したが、激しい外国人差別を受け今の職場に甘んじている。性格は真面目で勤勉、進んで学習しようと言う意欲もある。道徳を重んじ己を制する事を美徳としているが若さ故に脆い。端整な顔立ちで上背もある。罪の意識から雅子と深く関わるようになっていくが、恋愛と言うよりは崇める感情を持ち彼女を守ろうとする。

井口刑事
 バラバラ殺人を追う刑事。
 ドラマでは飯島直子が演じ役割は重いが、小説では男性で単なる脇役。飯島の演じる所の井口についてだけ言えば、雅子たちグループが単なる一主婦であった事とは違い理由はどうあれ少年課から刑事課へと成り上がった女刑事。男と同位置でありたいと願い強い野望もある。負けず嫌い。ドラマでは余計だったとか花を添えているだけと言われまくっている事に憤懣があったが、原作を読み終えた今では納得せざるを得ない。

 物語は深夜の弁当工場から始まる。

 凡庸な自家用車で乗り付ける雅子のすぐあとから、真っ赤なスポーツカーを乱暴に止めた邦子が来て耳打ちをする。
 「ねぇ、ここって痴漢が出るんすよね、聞いてます?」
 うるさそうに無視したまま、雅子は暗闇の中に聳え立つ工場に向かってきりきり歩く。
 「うふふっ、ブラジルさんだって噂っすよ、なんかぁ、私ってまだ若いからぁ、心配で」
 ちらと一瞥し雅子が言う。
 「襲われるの楽しみにしてるみたいに聞こえるけど」
 「やぁだぁ、なに言ってんすか、雅子さん・・・」
 邦子の甘ったるい巻き舌の声が、草っぱらに一際高く響く。

 まるで手術室に入る医者のように隅々まで手を洗い、それを更に作業場入り口で一人一人入念に検査され「傷無いね?!」と確認された上で始めて作業が始まる。手に傷があればその日一日仕事に干される事になる。
 きんきんと狂ったようにわめく主任が、彼女たちを早く早く!と追い立てる。 ベルトコンベアーが運ぶパックに次々と素材を詰めていく立ち仕事。生産個数と時間は常にかつかつで、少しでも効率が悪いと罵声が飛ぶ。
 彼女たちはただ黙々と押し黙ったまま、受け持ちのパーツをパックに詰め込んでいく。

 ドラマでも小説でも、一番熱心に描き込まれているのは、一人一人の性格と環境である。ドラマと言うそのものは別世界であるべきという定義があるかのように、そこには必ずと言っていいほど、少しばかりの隔たりが必ず存在していたものだった。今まで数々のドラマを見てきたが、こんなに近かったのは思い出す限りでは記憶に無い。

 「金曜日の妻たちへ」では中流家庭という設定だった。彼女たちは確かに都心から離れてはいるものの振興住宅地の上等な一戸建てに住んでいて、自家用車は3ナンバー、子供はよく言う事を聞き一時ひねくれはしても実は親思いで、夫は妻にたいそう甘い上に、その戸建てを買うためのローンを抱える暗さはない。彼女たちはそこで自分にキャリアが無い事を嘆きつつ近所の亭主と浮気に走る事になる。テニス教室に通いながら。

 「岸辺のアルバム」では八千草薫の母親像と言うのが印象に残っている。亭主は仕事に没頭し、その金で買った一戸建ては多摩川の土手沿いの木造の振興住宅地、外に働きに出るなと言う関白に逆らいもせず、裁縫を趣味として質素に暮らす専業主婦。その家でおそらく一番大きな窓の下に作業台があり、誰も帰宅しない居間で、一人肩をほぐしながら夕日を見つめる彼女の背中は、全ての運命を受け入れそれに流される毎日に疲れ果てていた。

 どの母親像にも共通して言えるのは魂の孤独と餓えだったが、それがいったい何であるのか、見ている私たちはそういったわずかに隔たった世界の中の彼女たちにどこか似た部分を探しては共感し、涙したのだ。

 が、あくまでもそれは写し絵である。まるで今の私と言いつつ、その姿はたとえ浮気三昧に走ろうがどこか清楚で高潔、八千草母ともなると母親としての尊厳と言うか人権と言うか、道徳と社会概念と言う眼鏡を通しての理想の母親像であり、どちらもわずかに上げ底がしてある幻想だったように思う。

 反面駄目母登場となるといつも悪役かお笑い役として主人公のご近所に生息し、言っちゃあ何だけど私はこんなじゃないわよと、侮蔑され別扱いを受ける存在だった。

 しかし「OUT」は違った。
 この母親像は原寸である。

 主人公雅子は、亭主との仲が冷え切っているからと嘆いてばかりいるわけではなく、幸福だった時期さえも幻想だったと現状を受け入れ一番効率の良い清算の仕方を模索する。暮しは標準だが不必要には金をかけていない。亭主の稼ぎもゆとりがあるわけではない。小説には無かったが、ドラマで彼女が使った銘入り包丁セットは明らかに通販物であった。こういう物を衝動買いしてた時もあったのよねと、もったいなさそうに封を切る。

 邦子はばかで欲望ばかりの女だが悪役ではない。こういうふうに亭主を含め周囲の足を引っ張るだけの女房なんてそこら中に生息している。うちはトモダチ夫婦だからと言いながら、悪口雑言言いたい放題、甘えの限りを尽くし合い喰い合う夫婦は少なくない。男から一時でも所有権を与えられた途端、私が幸せであるために、あんたはこうあるべきでそれは社会的にも正論なのよと言う理屈を振り回して聞かない女は、男女同権民主主義という言葉の浸透と共に、うんざりするほど増殖している。

 ヨシエは貧乏な上に寝たきりの姑に放蕩娘と不幸のどん底であるがそれは悲劇としては語られていない。それでもロバのように働き続ける女である。ワーワー泣いてはさてとと言い、またこぼしながらも姑のおむつを替えに立ち上がる。その姿が健気と言うのではない、どんなに困難で非人間的な事を強要されても、頼られていると言うそのものに生きがいを見出して己をあやしなだめて暮らす、介護法介護法と政府がどんなに声高らかに謳っても老人を抱える世帯と言われる大概の場合それが現実なのだ。

 亭主を絞めた弥生は、亭主が死んでこれからどうしようと恐れつつも、ちゃっかり汚れ仕事は人のいい友人に任せっきり、でも恩に着せられるのはまっぴらとばかりに金で返そうとしたあげく、てきぱきと現場で対策を練ってみんなを冷徹に仕切る雅子を憎みさえする。これが成功したらあなたは億万長者!と言う甘言に乗せられ、オブラートされたネズミ講にはまるタイプがこれである。おもしろい事に、それにはまったからと言って次に来る時にフェラーリに乗ってきたやつはいない、年賀状から亭主の名前が消えてたりはするが。

 私はドラマではまったのだが、まずそのシチュエーションが細かかった。
 微に入り細に入りと言うのはおそらくこの事を言うのだろう。

 弥生が亭主を殺してしまったとまず電話をかけるのが雅子なのだが、その遺体を車のトランクに乗せつつ、バラバラにしようと思い付くのが、カルビ弁当をさんざんぱら作り続けて綿のように疲れはた時、工場の巨大なごみ置き場を見ていてである。
 彼女がヨシエを巻き込んだのは、単独犯行が恐ろしいからとか、誰か巻き込まずにはおれないくらい悔悟の念があるからではない。一人では遺体の運搬に難儀するからと言う理由でしかなかった。そこに「師匠に対する金銭面での同情」は存在していなかった。
 邦子が巻き込まれたのは他者の意とする所ではなく、恐いもの見たさの好奇心で自ら踏み込み、金が欲しいから共犯となった、言ってみれば自業自得であった。
 弥生はそういう中で、まず、亭主の遺体を雅子が運び去った時点で私にはもう関係ないからと言うスタンスを取り始める所がなんとも言えない。
 お金も払うんだしと呟いては口元をほころばせる所は、テレビでも小説でも得も言われぬ憤懣さえ感じる所である。

 金額はテレビでは師匠に50万、邦子に10万、計60万の請求である。
 弥生的に言うならば、たった60万でうっとおしい亭主はいなくなり、その後は子供と二人悠々自適の保険金生活である。その後に強請られるかもとか、一生後悔するかもと言う発想は弥生には全く思いつきさえもしなかったのだろう。
 また、この金額設定も億とか何千万と言う話ではなく原寸で、原作/脚本の妙に唸ってしまった。そうなのだ。当面あれば助かるお金。息が継げる金額。
 その為に彼女たちは安直に深い奈落への一歩を踏み出す事になるのだ。

 雅子は原作では金を受け取る事になるが、ドラマでは当面金の無心はしないという設定である。彼女にとってはこの「遺体をバラバラにする事で踏み越える」というそれ自体が重要だったからで、あくまでも弥生はそのきっかけを与えてくれただけ、雅子はそれに飛びついたに過ぎない。

 ドラマの中で、遺体をバラすのに使うのは、ホームセンターで買った鋸と通販で買った銘入りの包丁一式。
そうなのだ。
 雅子の住いはこじんまりとした庭が申し訳程度に付いている建て売りの一戸建て、亭主はおそらく肉体労働とは縁の無い職業であり帰宅も遅い。日曜の過ごし方と言えば、テレビを見ながらごろごろと言った所なのは想像に易い。仮に日曜大工と言う事があったとしても、せいぜいが一枚板の棚を添えつける程度と思っていい。それさえもともすれば男気のある雅子がやっていたのかもしれない。

 遺体を肉の断片にし、せっせと溜めておいたスーパーのビニール袋をかき集め、2重にし、それに小分けする。まるで田舎から届いた箱のみかんを近所にお裾分けでもするかのように。

 日が経つと臭うし、あんまり近所に溜まっていると足が付きやすいから、自転車か車で行ける範囲まで行って出来るだけきれいにかたずけられてないゴミ置き場のちゃんと奥の方に奥に捨てるのよとも。何曜日のゴミの日の朝にちゃんと出してと念を押しながらあんたは自転車だから何個、車だから何個頼むわと分配し、捨てにいく。

 雅子とヨシエはそれぞれ、他の地区の管理の厳しくないゴミ置き場の情報まで知っており何とか捨て切るのだが、邦子だけはいつもそういった事に関してはまるで近所でも城之内さんてほんとにいつも汚い捨て方で、時間も守ってくれないから今度言ってやんなきゃなんて囁かれているんだろうなぁとか思われるのだが、安直に大きな公園のゴミ置き場にめんどくさいからここでいいやとまとめて捨ててしまう。その発想もわかり過ぎる。

 なんというシチュエーションだと、テレビの前で大笑いだった。
 ゴミ置き場とナマモノ系可燃ゴミの盲点なんて、どんな凶悪犯でもここまでは知りはしない。いや知ろうとも思わないだろう。
 日常の中で捨てるのに困る大量の生ゴミと、人一人の遺体は同じ重さでしかないのだ。なんという滑稽、なんという空虚。

 『お葬式』と言う映画があったが、あれは渇いた笑いだった。
 ここで言うリアルは笑えない。その奈落へ踏み出すか出さないかは、今こうしてたんたんと過ごす日常と紙一重の場所に確かに存在しているし、殺人と言う行為においての倫理観が、これほどまでに希薄な昨今、ともすれば安易に「生きがい」と言う分野の選択肢とも成り得るのだ。

 まるで子供のために仕方が無いから受けたのよと言いつつも、PTAに生きがいを見出し副会長会長と成り上がっていくそこらにいる女房のように、浮気に走った『金妻』の女房たちのように、彼女たちは決して日常では得られない遺体をバラバラにし手際よく処分するスリルと、しかも金銭が得られると言う一石二鳥にはまっただけでなのである。

 ここまで書いても、まだ、じつはネタバレではない。
 この小説において、「死体をばらして生ゴミで捨てる」と言う行為は、単なる伏線に過ぎない。
 ドラマを見てはまった人は、最後にわずかに不明確な部分を残している事に、欺瞞をさえ感じている事だろう。

 ドラマでのラストは、ドラマだから仕方が無かったのだ・・・と思う。私的に言わせて頂ければ、9時台のドラマにしては、よくそこまでがんばったし、お子ちゃま向け「7匹の子やぎ」のように「井戸に落ちたオオカミはそれに懲りてごめんなさいと言いながら森に帰っていったのでした。めでたしめでたし」で終わったりしていないという事だけで努力賞もんであった。
 実際ドラマ中何度も思うのである。
 ああ、これで亭主が救ってめでたしかな、事件として捕まってめでたしかな、・・・それが毎週尽く裏切られ続けていくのは、それこそ脚本の妙、危うし黄金バット!と言う所でなけなしの小遣いをもぎり取られ、飴をしゃぶらせられて、明日の小遣いを母親にせびりに帰る子供の気分を満喫させて頂いた。

 テレビはやはり表層のメディアである。そこで殺人礼賛はもちろん許されざる行為であり、母親は悪役と言う設定でない限り、子供を思っていなければならないし、父親は家族を守ろうとしなければいけない。特にそれが主人公ともなればなお更である。
恐いもの知らずの実験番組をも流してしまうこの局でさえ、原作まんまはどちらにしても叶わぬ望みである。

 本当はどういったラストであるかと、そこまで書くのはさすがに気が引ける。
ドラマではまったお人は、ぜひ、原作を読んで頂きたい作品である。

 END



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