Alice




 いい子にしてたかい? 沙綾。

  「ご機嫌いかが? お父さま」

 沙綾はいつもそうしてちゃんと挨拶が出来て、本当にいい子だね。
 白いブラウスは、襟まできちんと真っ白で、爪は短く綺麗に整えられてて桜貝のようだった。スカートの裾はいつもそれとなく気にするような。いつも仄かにシャボンの匂いがする。汗まみれのまま床に入るなんて考えた事もない。無理にでもそうしなさいと言われたら、きっと朝まで眠れないに違いない。パジャマもその小さくて細い身体もすべて質素で清潔。
 父さんは、毎朝沙綾に会うのが楽しくてしょうがなかった。

  「挨拶はお母さまに習ったの。良い大人になるように」

 そうだったね。あの女は沙綾が生まれたばかりの時から教育だけには熱心だった。
 教育なんてどの口が言うんだかと思われるほど本人は至って低脳なのに、無理難題ばかり押し付けて。
 沙綾は私の娘なんだから、生まれつき才能に恵まれているのに、あの女の血が混ざったばっかりに完璧になれなかった。あいつはそれをすっかり私のせいにして、どこへ行くにもおまえにしつこく付きまとってた。あの時は何も助けてやれなくて本当に今でも胸が痛む。
 沙綾はそれでも、お母さんが好きかい?

  「大嫌い。いつもこうしなさいああしなさいって言うんだもの」

 本当にあの女は口うるさい。  毎日毎日飽きもせず同じ話ばかり繰り返して、あいつが周りと上手くやれないのは、何も私のせいじゃない。年甲斐もなく派手な服を着て、なにかにつけて学校に乗り込んでは担任を吊るし上げるから、父さん、他の学校の事とは言えその事で何度不愉快な思いをしただろう。沙綾の担任も低脳だけど母さんはもっと低脳だ。
 でも沙綾、安心していいんだよ。もう、沙綾にうるさく付きまとう母さんはいないんだ。沙綾と父さんと、やっと二人きりになれたから。

  「お母さまは、またお出かけ?」

 そうだよ。  そしてそのままずっと帰っては来ない。
 この家を買った時、一番あの女が嫌っていた場所、方角が悪いと騒いで不動産屋まで呼びつけて呆れられてた臭く暗くじめついた沈丁花の下。
 北東の日影の鬼の来る道を、これからは己の穢れた醜い肉の体で守るんだ。
 最後の最後まで、あの女の体は重かったけど、ああ、これで沙綾と二人きりになれると、父さんがんばったんだ。

  「きっと血がいっぱい出たんでしょうね」

 血だけじゃないよ。腐った腹の全ての汚濁が流れ出たから、あの女はやっと自分の体重を気にしないでよくなった。もう、麦飯や玄米を無理やり食わされる事もなくなった。父さんは、お腹いっぱい真っ白いご飯が食べたいな。

  「汚濁ってなぁに?」

 汚濁を知らないのかい?

  「汚濁ってなぁに?」

 キーワード:汚濁|おだく・・・返事:吐き気がするわ・・・教える

 汚濁はわかったかい?

  「吐き気がするわ」

 そうだね。吐き気がする。お母さんには本当に吐き気がする。

  「死んでしまえばいいのに」

 私は慌てて口元を手で蔽った。
 口の端が笑いに歪んだのを周りのやつらに見られたりしてないといいが。

 あたりはそろそろ暗くなりかけていて、校庭から数人の女子の甲高い笑い声が聞こえていた。彼女たちはここで時間をつぶして、暗くなった頃に化粧をし、繁華街に繰り出すに違いない。今度しっかり会議にかけて必ず私が正義の鉄槌を下してやる。
 笑ってられるのも今日までだぞ、雌猿ども。

 ああ、私が沙綾の担任だったらよかったのに。
 綺麗なまま父さんの思っている通りのレディーになれたのに。
 性欲ばかりが発達した猿みたいなガキどもの相手をしているより、おまえと二人だけでこうして授業が出来るんだったら父さん、本当に教師になった事を心から誇らかに思うだろう。
 沙綾の周りの猿どもを、全部殺しても殺したりない。

  「今日は何のお勉強?」

 今日はまた、新しい言葉をたくさん憶えるんだよ。ちゃんとしたレディーになるために、いっぱいお勉強しなくちゃね。

  「お勉強なんかより、私はピアノがひきたいの」

 こらこら、それよりまず言葉を覚えるところからだよ。椅子にじっと座って、私の言う事をお聞き。

  「じっとしてるのは嫌いなの」

 沙綾。言う事をお聞き。

  「このくそジジイ! しなびた女房相手にマスでもカイてろ!」





 おや。まだ残っていたな。もうすっかり削除したと思ったのに。沙綾と父さん、二人きりで話ができる聖地を、我が物顔で踏み荒らしたあいつらの痕跡。
 他人の物と己の物さえ区別がつかない、腐った低脳ども。

 私の沙綾はね、初めはこんな言葉なんか知りもしなかったのに。
 父さんがついててやれれば、こんな事になんかならなかったのに。
 あいつが選んだ高校は県内でも指折りの私立で、絶対にここなら胸を張れると自慢していたけれど、結局は猿の浅知恵、私がもう少しちゃんと付いていてやれれば、沙綾もこんな言葉を覚えることなんか無かったろうに。

 甘ったるく語尾を延ばした喋り方の電話は、父さん片っ端から切ったのに。
 それでも父さんの見えない所で私の沙綾は汚染されてしまった。真っ黒だった長い髪は次第に紅く染められて、言葉もどんどん乱れて行った。
 あの女を入院するほど痛めつけた時には誉めてやりたかったけれど、それ以外はどれもぜんぜん頂けなかった。沙綾の愛くるしい唇までもが白い口紅で塗りたくられ、父さんに向かってこう言った。



  「ジジイ、くせえんだよ。オレに話し掛けんじゃねーよ」



 沙綾が初めて外泊した晩は、父さんほんとに眠れなかった。
 私の沙綾が見ず知らずの男に酷い事をされていると思うと
 本当に気が狂いそうだった。

 父さんはね、
 沙綾がそれ以上悪くなっていくのを見ていられなかった。

 悪い沙綾はいつまで経っても父さんの言う事に逆らって、激しく暴れるもんだから、終いには父さん、どうしていいか解らなくなってしまって、沙綾の身体を少し汚してしまった。
 すまなかったね沙綾。

 沙綾の細くて白い足首が、宙を蹴るのを止めた時、それまでの良い子だった沙綾のように「お父様、ありがとう」と呟いただろう?
 父さん、沙綾の事は何でも解るんだ。

 でも、汚れてしまった沙綾の身体はきちんとオキシフルで清めて、小さい頃通っていた日曜学校でしていたように、皺一つ無い濃紺に白いラインのセーラーのワンピースに、純白のソックスをはかせて、手は胸の上できちんと組んで、爪の気味の悪い色は丁寧にふき取って2ミリきっかりに切り揃えておいた。
 髪はどうやって直せばいいかどうしてもわからなかったから、綺麗に剃って黒い目の詰まったレースのベールで覆っておいた。

 沙綾の真っ直ぐで漆黒だった長い髪。

 1束1束、沙綾の綺麗だった黒髪を剃り落としていく時
 父さん、涙が止まらなかったよ。





 沙綾



 沙綾の入学式に、桜の木を植えた事を憶えてるかい?

 私は今でも憶えてる。

 小さな沙綾が桜を植える私の肩に重たいくらいまとわりついて、
 お父様ありがとうと、はしゃいでいたあの日。
 この桜はねぇ、沙綾といっしょに大きくなってきたんだ。

 綺麗な沙綾と綺麗な桜。
 沙綾には、やはりこの木が一番似合うって、父さんそう思って選んだんだ。


 最近は、ちらほら花を付けているのが精一杯だったけど


 来年にはきっとまた、沙綾みたいな綺麗な花が咲くだろう。


END.












「桜」 Photo by Gallery DORA 京都お散歩写真館

Chaos Paradaise

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