怖い本読みましょうか 3

夜会オススメの怖い本
最終更新日 2004/1/20





大石圭 その暗黒

大石圭 「履き忘れたもう片方の靴」(1994)河出書房新社、「いつかあなたは森に眠る」(1995)幻冬舎、「出生率0」(1996)河出書房新社、「死者の体温」(1998)河出書房新社、「処刑列車」(1999)河出書房新社、「アンダー・ユア・ベッド」(2001)角川ホラー文庫、「殺人勤務医」(2002)同社、「自由殺人」(2002)同社、「呪怨」(2003/1)「呪怨2」(2003/7)同社、「湘南人肉医」(2003/11)同社・・・以下続刊
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 そもそもの出会いは、以前からホラーマニアの間で最恐と噂のあったビデオ版「呪怨」と言う映画で、彼はそれのノベライズを担当した作家だった。

 映画は、近郊都市の一戸建てで惨殺された伽椰子と言う女が祟る話で、キャラクターの人格付けや設定はすべて排除され、全体がパズルのような断片で構成されており、見る者はその断片から全体像を思い描くという、ひどく不親切で実験的な作品のように見えた。が、既製の作品のように余分な考証や説明の無い分、映像、脚本の醸しだす恐怖は凄まじく、近年稀に見る臨場感と斬新さで胸に迫る、新鋭清水崇監督の出世作である。
 ともかくはまったのだ。怖い、怖い、怖くてたまらない。この昂揚感をなんと表現していいかわからない。ピースは明らかに手の中にあるが、どこにはめていいのかわからない。はめては外し外してははめてみて、本当にここでいいのかという思いが錯綜する。想像ばかりが暴走し、誰かに「これが正解です。この家族構成はこうで設定はこうです。だから伽椰子は祟るのです」と解説して欲しくて仕方が無い。

 始まりは確かにネットの噂だったのだ。そこかしこにある「これまでで一番怖かった映画を教えてください」というトピックスで、この「呪怨」はずいぶん以前から密かに囁かれて続けていたのだ。が、そもそも始まりは映画であって、「リング」や「バトルロワイヤル」のような原作ありきの話じゃない。脚本は清水監督本人だったし、作品そのものに圧倒的な魅力があったので、後付のノベライズなら作家など誰でもいい、ともすればそれにもっともらしい注釈がついてさえくれればそれでよかったのかもしれない、と、軽い気持ちで手にとったのだ。・・・・そこに原作清水と、ノベライズ作家の打ち合わせが成り立っているならば。

 が、読み進むにつれ、私は息を呑んだ。
 映画ではただ陰鬱なストーカーだった伽椰子と、その夫威雄による伽椰子惨殺に至るまでの葛藤と狂気、崩壊の経緯、伽椰子が執着した男性教師小林とのあまりにも裏腹な人生、その事件を知らず次々と入居してくる家族の「平凡な幸福」がずたずたに破壊される様などが、ともすれば映画以上に切々と胸に迫るのだ。
 しかし、この筆力で原作付きとはと、制作サイドから辿っても作家と映画の繋がりが見えてこない。日頃の偏食から来る浅学ゆえか、その名に全く聞き覚えがなく、そもそもホラー作家なのか、無名作家のやっつけ仕事なのか。次々公開される映画版「呪怨」に翻弄されつつも、餓えはますます酷くなった。

 が、幸運な事に呪怨人気にあやかってこの大石の既作がにわかに脚光を浴び始め、本屋には「呪怨」1,2と並んで、近年作「殺人勤務医」「アンダー・ユア・ベット」「自由殺人」が平積みされるようになり、ともかくなんでもいいからオリジナルをと手に取ったのが、「殺人勤務医」だった。

 主人公古河リョウは、平塚の地下室と庭付き 一戸建てに住む、堕胎専門の勤務医である。
 院長の娘で53歳の女医と関係してはいるが、野望は抱かず、けしてでしゃばらず、一勤務医として淡々と職務をこなし、看護婦にも評判がよく、患者にもただ冷徹なだけではない。
 彼を堕胎専門医として殺してやるとまで憎む倫理敵はいるが、なぜ通常の産婦人科医ができれば避けたがる「堕胎専門」の職務に就く事を快諾したのか知る者はない。なぜならば、彼にとって昼の顔はさほど重要ではなく、犠牲者を次々と拷問し処刑する夜の顔、すなわち連続殺人鬼こそ、彼の美学の根幹であるからだ。

 自宅のベランダには、彼がポルカと名づけたカラスが、ドッグフードをついばみに来る。ポルカはベランダのガラス戸が開いている時はけして近寄らない。彼らは互いの領域に踏み込まぬよう共生しているのだ。
 ヤンと名づけた雑種犬は、嵐の日、怠惰な飼い主から略奪した犬だ。週に1回のシャンプーと月1回のトリミングで、今はろくに餌も与えられず不潔極まりない犬小屋に汚物のように繋がれていた過去の面影はない。飼い主の高校教師は処刑した。
 隣家のアパートで長年にわたり両親から激しい虐待を受けていた4歳の少女は、今は警察の手で保護され施設で暮らしている。そのはすっぱな母親は、堕胎のため彼のクリニックを訪れた際、彼の356ポルシェで捕獲し処刑した。

 処刑室には、元食肉業者だったという画家が描いた稚拙で陰気な牛の絵がかかっている。
 その男は、長年食肉業で莫大な財を成したが、ある日唐突に画家に転向し、これまで己が屠殺した夥しい数の肉牛を描いた後この牛の絵を最期に自殺した、この家の前オーナーである。犠牲者は皆、最期はこの牛の絵の下で死体となる。画家は、何を思いそれまで己が虐殺し続けた食肉用の牛を描く気になったのか、なぜ、この暗い地下室のこの絵の下で自殺したのか。

 犠牲者を拷問しながらリョウは思う。
 自分はこの痛みを知っている。
 生まれてから母親が彼を置き去りにし行方不明となるまでの9年間に受けた虐待の記憶。
 だがこの大石という作家は、この主人公に幼児期のトラウマとも復讐とも正義とも言わせない。彼は犠牲者を社会悪として侮蔑し「自らのライフワークである連続殺人用の素体としての正当な理由」をもって処刑し、また彼自身にも親から見離され処理された胎児にかける言葉と同様、「運が悪かったんだ。諦めろ」と言い切らせるのだ。
 「僕は殺したいだけだ。胎児を殺すことに飽きたらず、人間までも殺しているだけだ。殺しても殺してもまだまだ殺したりないだけだ。それだけだ。」
 ナチュラル・ボーン・キラー。彼がこの事を思うたび、彼の神経がぞくりと震え、苛立つのがわかる。

 後半、この連続殺人鬼は、長い年月をかけて探し出した母親の捕獲に成功する。幼いリョウの記憶のままに薄いネグリジェから「突き出た」年齢やその痩せぎすの体型にはおよそそぐわない改造された豊かな乳房。その生臭さはどうだ。その先、通常ならば怒りであろう、悲哀であろう。が大石は違う。看護婦の屈託の無い誘いに「今、母が来ているから」と答えるリョウの複雑な心情表現にただ敬服するばかりである。

 いわゆる一目惚れである。
 「呪怨」の伽椰子は美しい女だった。それゆえ夫の逆鱗に触れ彼は嫉妬で狂気する。原作にそれがあったかどうか定かではないし、どちらにしても清水の感性では些か無理があったと思われる。そのため1作目の伽椰子は単なる粘着型ストーカーで、惨殺によって追撃する怨霊と化すクリーチャーであるが、それを劇場公開版「呪怨」のラストにおいて、藤貴子演じるところの伽椰子の血涙シーンで終わる結末にまで高め、結果清水に「美しい女だった」と言わしめたのは大石の力量に他ならない。
 男の「美しさ」とは総合美である。「殺人勤務医」のリョウは美しい男である。クリニックで彼は、穏やかに微笑みつつ勤勉に仕事をこなし、アフターにはまるで飼っている小動物の世話をする子供のようにわくわくと帰宅し殺戮するのだ。
 煌々と月明かりの差し込む何もないフロアで深夜、1人優雅にワルツを踊るかのように殺戮する堕胎医リョウの孤独は、私の襟首をムズと掴み、この世界に一気に引き戻したのだ。

 貪るように読む羽目に陥る作家とであったのは本当に何年ぶりだろう。
 「アンダー・ユア・ベッド」は、古代魚に執着しつつ、1人の女のストーカーを続ける地虫のような男が主人公である。が、この男、地虫ゆえに亭主から激しいDVを受け続ける彼女を救うヒーローになろうなどとは思わない。女は11年前、いわゆるステレオタイプの女子大生だったが、たった一度、その地虫に情をかけたことで、知らぬまに繋がりを持つ羽目になる。男はまるで古代魚を飼育するかのように、その取れた鱗の1枚でも修復せんと、彼女を崇め、平伏しもがき、仕えんとする。読者は最後の一枚を読み終えて初めて、これは恋愛小説だったのかと気付くのだ。

 男はグッピーの飼育をきっかけに熱帯魚にはまっていくのだが、彼は死んだグッピーの死体を彼の作品である「美しい水槽」からとっとと排除し便所に流す。彼がはまるのはあくまでも「美しいグッピーの維持補完とブリード」であって小さき者を愛でるというような慈愛に満ちた話ではないのだ。
 11年前たった一度だけデートした女子大生を思うと書かれれば単純に純愛のように聞こえるが、男は自室に据えたマネキンに10年前の彼女の姿を再現して悦にいるというシーンで、彼女がしていた指輪と同じ指輪を購入しマネキンの指に嵌めようとするが入らない。そこで彼はペンチでマネキンの指を破壊し無理やりはめ込んだりもする。

 男に激しくDVを受けている彼女を自らが救うという発想はない。もっといえば、女神のように見えた彼女がみすぼらしく男にかしずく姿を憐れみ、密かにささやかな救済を与える事で悦にいったりもする。しかし、その裏腹に男は、「彼女とその亭主の破滅的な性生活」をも熱心に観察し続けていたし、作中登場する男のコピーともいうべきもう一匹の地虫の登場や彼女の無計画な逃亡というようなきっかけがなければ、多分、彼女が夫を殺すか、夫が彼女を拷問死させるまで、その観察は続いたように思う。
 そもそも男は、彼女に害を及ぼす亭主の代わりにその立場になりさえすれば、彼女と幸福な結婚生活を営めると思っているわけではない。彼女に「私もあなたを愛しているわ」と言って欲しいなど、これっぱかしも求めてはいないのだ。

 また、彼女は彼女で、亭主とは完全な共依存の状況に陥っている。DVという過酷な状況を無論よしとはしないものの、盲従する以外に具体的に夫の暴虐を回避する方法を考える思考力はなく、煌びやかな青春時代の自分を夢見つつ、みすぼらしい現在の姿に絶望し、暴君と化した亭主を批難し侮蔑し原因悪と決め付け、やみ雲に夫の懺悔と改心を懇願するだけである。
 同様にその夫も、自らが育った環境にあった暴力的差別的支配という刷り込みだけで虐待し続ける。仕事場での不具合や、贔屓の野球チームの勝ち負けにまで左右されエスカレートしてゆく自らの暴力に、わずかばかりの疑念もない。
 登場人物の誰もが、他とのコミュニケーションをまったく持たず、そのため何の歯止めもない。

 この歪みはどうだ。これこそが大石の真髄である。

 デビュー作は文藝賞佳作の「履き忘れたもう片方の靴」。短編ながら、無機質で無感情のウリセンの美少年が、男の占有シーメイルになるまでをほぼ全編飼育や調教といったsex描写に徹した作品であり、この流れには「いつかあなたは森に眠る」がある。
 世間が「バトルロワイヤル」で大人数の高校生や教師の殺し合いに狂喜していた時、大石は「処刑列車」で列車を乗っ取った。240人もの人質を監禁した車内で、笠智衆張りのくたびれた老人が、小賢しく下世話で欺瞞に満ちた中年女4人を一瞬で射殺し、車内の掃除婦のおばちゃんが煙草を吹かしながら横柄で身勝手な若者を射殺する。犯人グループのリーダーはやはり人形と見まごうほどの美しい高校生の双子である。この流れには「自由殺人」と未読で申しわけないのだが多分「死者の体温」があり、いずれも社会に潜む凡庸な一般市民が根底に持つ悪意を言及している。

 そして「湘南人肉医」と言うふざけたタイトルの最新作は、この「・・殺人医」のコピー、正確に言うならばコピーアートのような戯作ではないか。主人公小鳥田は神の手を持つとまで言われる優秀な美容整形外科医であるが、その名と真逆の137kgの巨漢で、物腰穏やかに謙遜しつつ獲物を捕獲しその肉を喰らう食人鬼である。
 彼は犠牲者の肉が「のどを通るたび」「エクスタシー」を感じつつ、贖罪としてせっせと世界の不幸な子供らに施しをする、その下品なほどあからさまな偽善はどうだ。安っぽい形容詞を並べ立てながら喰らっては泣き、また喰らう、まるで肥満のカリカチュアのようなその滑稽。
 巨漢は、貪欲の果てに至福の美味を得ようと自ら人肉を飼育する事を思いつく。肉牛ならぬ肉人である。それもそこいらの美女喰い殺人鬼とは違い、浪漫と架空が交差した大石カラーとも言うべき繊細な透明色で描きつつ、物語は一気に終焉へと降下する。
 完読した瞬間、この作品は、自らが産み落とした「殺人医」への自戒ではないのかという思いが頭をよぎる。

 大石には眩暈がする。揺さぶられる。
 私は大石に恋をしている。しばらくはこの眩暈とときめきに身を任せ、このわずかに血の臭いの混ざったよい香りのする無機質で透明の大石世界を漂う事になりそうだ。





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