PAPILIONIDAE



 この手紙の差出人、青年の言う先生とはつまり、私のいる大学に十年ほど前、鱗翅目の講師としてやってきた男である。
 私も本業の傍ら、蝶の収集には道楽程度の興味があったし、歳が近かった事も手伝ってか、彼とはすぐに親しく付き合うようになった。

 その頃すでに彼の生活は、蝶で埋め尽くされていたと言ってもいいだろう。彼の蝶類のコレクションは、学術的と言うよりむしろ狂気に近いものがあった。この仕事に就いた事自体がそもそもの間違いだった、僕は彼らに溺れているのだと、酒を飲むたび自嘲するかのように語っていた事を思い出す。

 めずらしい種類がいたと聞けば何ヵ月も出たきり帰らない。大学にはほとんど顔を見せず、人との付き合いも私を除いて全く無かったと言っていい。それを世間が許すはずもなく、二年ほど経った時、ふいと突然姿を消したきり二度と大学に戻っては来なかった。

 私との付き合いも、それを境にふっつりと途絶えたきりになっていた。
 ならばなぜ、十年来便りの一つもない、まるで生きる事の全てを蝶に賭け、彼自身の言うように、翻弄されているような男と付き合っていたのか。ましてや、こんな山奥に幽として建つこの屋敷にまで物好きにも足を運んだのか。

 彼からのあの手紙も、もちろんきっかけにはなった。だが、本当の理由は、それだけではなかった。私は彼に、えも言われぬ魅力を感じていたのだ。
 私自身と言えば彼とは全く正反対で、妻と二人の息子と、ささやかながら一応楽のできる程度の毎日何の変哲もない暮らしをして生きてきた。可もなく不可もなく、彼の去ってしまったキャンパスで、今も淡々と講義を続けている。  そういう私の前に突如として現われた彼は、これまでもこれからもおそらく変わり無く生きるであろう私の人生の光明だった。

 きっと私は、私が一生かかっても踏み切る勇気の無かった仮の人生を過ごしている己れの姿を、彼に見いだしていたのだろうと思う。
 共に野山を駆け回り、蝶に翻弄されたいと、何度思ったことだろう。
 彼と酒を酌み交わし語り明かした夜を、正直楽しかったと思っている。
 あの手紙を受け取った日から、私の胸は、彼との再会の喜びでここ数年間味わったことの無いほどに高鳴っていた。

 しかし、この屋敷で私を待っていたのは、彼が私の到着を待たずして他界したという報せと、唯一彼の残した財産であろうおびただしい数の蝶の標本と、この青年であった。

 「僕は、先生の助手として五年間、先生と共に暮してきました。思えば長いような、短いような五年間でした」

 青年の声は澄んだアルトで、穏やかに話しているはずなのによく通った。
 美しい青年だった。

 「君は、」
 青年は、ふと顔を上げ、私の言葉を待った。待たれているほんの数秒の時間が、私をとても緊張させた。

 「君は、彼が亡くなった後、ずっと一人でここに住んでいるのかね」
 「ええ、それが先生の望みでしたから」
 「君のような若者を、こんな森の中に閉じ込めておくのが?」
 「閉じ込められているわけではありませんよ」
 青年の口の端に、何か意味ありげな笑みが、かすかに浮かんで消えた。

 「私は度胸の無い人間だから、こんなに深い暗い森の中でなど、独りじゃとても居られない。ましてやこんな風が吹く夜など、恐ろしいとは思わないのかね」
 「ここには、まだ先生が生きておられるのです。きっと、あなたがいらしてくださった事も解っていらっしゃるし、喜ばれていると思います。
 ここで一人で暮していても、先生の残してくださったこの蝶たちの生きた姿が、僕を先生に会わせてくれますから。僕は少しも恐ろしいと感じた事はないのですよ。

 ………それに、世の中には、ここよりずっと恐ろしい場所がありますから」
 青年は、そう言うとぐるりと部屋を見渡した。

 私達のいる広間は、いや、この広間だけではなく、この屋敷のほとんどが、蝶の標本で埋め尽くされているのだろう。
 この屋敷に一歩踏み込んだ時にまず私を驚かせたのは、この蝶たちの姿であった。

 その一つ一つが、まるで今にもはばたき始めるかのような完璧な姿。それぞれに記された彼らしい詳細なデータ。
 全てがまるで意志を持ったもののように、入り口に立ち尽くしていた私に対して、一斉にその視線を向けたのだ。

 彼と親交のあった時期のコレクションとは、比べものにならないほどの数だった。
 私はその時初めて彼の手紙にあった、地獄に堕ちるという言葉の意味をおぼろげながら理解できたような気がした。



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